検察官による「証拠隠し」
宮田浩喜さん(87歳)は、1985年に熊本県松橋町(当時)で起きた殺人事件の罪に問われ、無実の罪で懲役13年の判決を言い渡されたえん罪被害者である。 2019年に再審開始決定がなされ(注1)、殺人罪について無罪判決が確定した(注2)。再審開始決定の決め手となったのは、宮田さんが「自白」の中で、「凶器に巻きつけた後燃やした」と述べたとされるシャツの布片が、再審手続の中で新たに開示されたことだった。宮田さんの自白が真実であれば、布片には被害者の血痕がついているはずだし、そもそも燃やしている以上布片は存在しないはずだった。布片の存在は、宮田さんの自白が客観的事実と矛盾し、有罪の唯一の根拠だった自白の信用性を否定するに十分だった。
報道によれば、宮田さんは、2020年9月18日、検察による証拠隠し等により無実の罪で身体拘束されたとして、国と県に損害賠償を求めたという。
証拠隠しが問題になったえん罪事件は松橋事件だけではない。布川事件や東京電力女子社員殺害事件、湖東記念病院事件など、再審無罪事件のほとんどで問題になっている。
検察官倫理と開示義務(注3)−アメリカの場合
証拠の不開示によりえん罪事件が起きているのは、日本だけではない。アメリカのえん罪事件のうち44%の事件で、証拠不開示がえん罪の原因として指摘されているという(注4)。
検察官による証拠隠しが問題にされる中で、アメリカでは、検察官の証拠開示義務について議論がなされてきた。倫理規程において検察官の証拠開示義務が明示されたのもその現れである。
「検察官の特別な職責」を定めるABAの法律家職務模範規則3.8は、被告人の有罪を否定しまたは犯罪の程度を軽減することが検察官に知られている全ての証拠や情報を弁護人に適時に開示しなければならないと定める(3.8 (d))。同規則は2008年に改正され、有罪判決確定後に被告人が有罪とされた罪を行っていない可能性を示す、信頼できる重大な証拠等の開示が義務付けられた((g)及び(h))。
また、検察官のベストプラクティスを示すためにABAが採択した「刑事司法の基準」の「検察の機能」3-5.4はこれらの規定をさらに具体化させ、有罪を否定し、犯罪の程度を軽減させ、検察官証人の証言を弾劾し、または減刑につながりうる証拠や情報について、検察官は訴追後もそのような証拠や情報があるかを探求し、あった場合には弁護人に開示すべきを定めている。「証拠開示」の基準でも、被告人に有利な証拠を適時に開示すべきであることが定められている(11-2.1)
現在34の州が、検察官に対し、被告人の刑事責任を否定する方向に働く証拠(exculpatory evidende)の開示を法律により義務付けている。そのうち2州を除いては、証拠開示に関する重要な連邦最高裁判例Brady v. Maryland(注4)がいう、証拠の「重要性」(materiarity)を求めていない(注5)。すなわち、こうした倫理規程や証拠開示のルールは、最高裁判例が示したのよりも、検察官が負う証拠開示の義務の範囲を広げているのである。
証拠開示義務に違反した場合、検察官は懲戒処分の対象になりうる(注6)。しかし、懲戒制度が十分に機能しないことを批判し問題視する声も多い(注7)。ニューヨーク州では、警察官が証人を威迫して偽証させた結果、殺人の罪を着せられた男性が16年間服役したという事件で、警察官が証人を威迫していたことを検察官が知りながら弁護人に対して何も開示しなかったことが明らかになった。それにもかかわらず、検察官が何も処分を受けなかったことが強く批判された。この件を契機に、2019年4月、検察官の不正行為を調査する委員会を設ける法律が可決され、Andrew M. Cuomo知事が署名したという(注8)。
検察官倫理の不存在
翻って日本はどうか。前回書いたように、日本には、検察官に対する行動規範としての倫理規程が存在しない(少なくとも公開されていない)。検察官による証拠改ざんを契機に設けられた「検察の理念」(2011年)でも、証拠開示については何も触れられていない。
えん罪が明るみになり、証拠不開示がえん罪の原因となったことが判明してもなお、検察庁にはそのような動きはない。布川事件で再審無罪が確定した櫻井昌司さんが国と県に対して賠償を求めた訴訟で、2019年5月、東京地裁は、 検察官の手持ち証拠のうち、裁判の結果に影響を及ぼす可能性が明白であるものについては、被告人に有利不利な証拠を問わずに開示する義務を負うと判断し、検察官が証拠開示に応じなかったことの違法を認定した(注9)。しかし、検察庁 がこうした指摘を受けて実務の改善を図ったという動きは耳にしない。
証拠開示に関する規定は、刑事訴訟法に存在する。現在の実務では、公判前・期日間整理手続に付された事件(全体の2.7%(注10))では類型証拠、主張関連証拠に該当する証拠が開示され、そうでない事件では、任意開示される運用がなされている。しかし、それはあくまでも「任意」である。公判前整理手続に付されている事件であっても、弁護人が請求しない限り開示されない。弁護人や被告人がその存在を知らないまま証拠が開示されない危険は十分にある。
最後に
現代社会では、法律家のみならずどんな専門職にも倫理が求められている。企業においてもコンプライアンスの遵守が要求されている。倫理を守ることによって、専門職に対する信頼が維持されている。強大な権力の下に個人を訴追し、刑事司法を担う検察官であればなおさらであろう。
アメリカの制度が最善であるというつもりはない。しかし、証拠隠し、証拠不開示がえん罪の原因となっていることを受けて、検察官の証拠開示義務を見直し、倫理規程や法律が制定されてきたこと、さらには証拠開示改革に向けて議論が進められていることから学ぶべき点は非常に多いと思う。
証拠の不開示によってえん罪が起きていることを真摯に反省するならば、検察官のための倫理規程を設け、証拠開示に関する行動規範を明記する、少なくとも内部のガイドラインを設け、それを公表して国民の理解を得るように努めるべきではないだろうか。
脚注
(1) 熊本地裁平成28年6月30日決定(判時2368号97頁)
(2) 熊本地裁平成31年3月28日判決(裁判所ウェブサイト)
(3) アメリカにおける検察官の証拠開示義務については、ブルース・グリーン、ピーター・ジョイ「アメリカにおける検察官の証拠開示義務」(一橋法学13巻2号525頁、2014年)に詳しく論じられている。リンクから読むことができる。
(4) National Registry of Exonerations, Government Misconduct and Convicting the Innocent-The Role of Prosecutors, Police and Other Law Enforcement (2020), at 75. また、前掲注4・868頁は、ブレイディ判決の証拠開示義務違反が、最も多い誤判原因の2番目に多いという研究を紹介する。
(4) 373 U.S. 83 (1963)
(5) 前掲注4, 78-80頁
(6) The Center for Public Integrityが発表した、Neil Gordon, Misconduct and Punishment-State Disciplinary authorities investigate prosecutors accused of misconduct (June 2003, 2018年に更新)は、被告人の無罪を示す証拠のの不開示により検察官が懲戒処分を受けた例を紹介する。
(7) Thomas. P. Sullivan et al., The Chronic Failure to Discipline Prosecutors for Misconduct: Proposal for Reform, 105. J. CRIM. L. &CRIMINOLOGY (2015)
(8) New York Times, Prosecutors Sometimes Behave Badly. Now They May Be Held to Account, 5 April 2019
(9) 東京地裁令和元年5月 28日判決(裁判所ウェブサイト)
(10) 平成30年司法統計刑事編第39表「通常第一審事件の終局総人員−公判前整理手続及び期日間整理手続の実施状況別合議・単独、自白の程度別−全地方・簡易裁判所」より
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