2020年9月21日月曜日

証拠開示ー検察官倫理について考える②

検察官による「証拠隠し」


宮田浩喜さん(87歳)は、1985年に熊本県松橋町(当時)で起きた殺人事件の罪に問われ、無実の罪で懲役13年の判決を言い渡されたえん罪被害者である。 2019年に再審開始決定がなされ(注1)、殺人罪について無罪判決が確定した(注2)。再審開始決定の決め手となったのは、宮田さんが「自白」の中で、「凶器に巻きつけた後燃やした」と述べたとされるシャツの布片が、再審手続の中で新たに開示されたことだった。宮田さんの自白が真実であれば、布片には被害者の血痕がついているはずだし、そもそも燃やしている以上布片は存在しないはずだった。布片の存在は、宮田さんの自白が客観的事実と矛盾し、有罪の唯一の根拠だった自白の信用性を否定するに十分だった。

報道によれば、宮田さんは、2020年9月18日、検察による証拠隠し等により無実の罪で身体拘束されたとして、国と県に損害賠償を求めたという。

証拠隠しが問題になったえん罪事件は松橋事件だけではない。布川事件や東京電力女子社員殺害事件、湖東記念病院事件など、再審無罪事件のほとんどで問題になっている。

検察官倫理と開示義務(注3)−アメリカの場合


証拠の不開示によりえん罪事件が起きているのは、日本だけではない。アメリカのえん罪事件のうち44%の事件で、証拠不開示がえん罪の原因として指摘されているという(注4)。

検察官による証拠隠しが問題にされる中で、アメリカでは、検察官の証拠開示義務について議論がなされてきた。倫理規程において検察官の証拠開示義務が明示されたのもその現れである。

「検察官の特別な職責」を定めるABAの法律家職務模範規則3.8は、被告人の有罪を否定しまたは犯罪の程度を軽減することが検察官に知られている全ての証拠や情報を弁護人に適時に開示しなければならないと定める(3.8 (d))。同規則は2008年に改正され、有罪判決確定後に被告人が有罪とされた罪を行っていない可能性を示す、信頼できる重大な証拠等の開示が義務付けられた((g)及び(h))。

また、検察官のベストプラクティスを示すためにABAが採択した「刑事司法の基準」の「検察の機能」3-5.4はこれらの規定をさらに具体化させ、有罪を否定し、犯罪の程度を軽減させ、検察官証人の証言を弾劾し、または減刑につながりうる証拠や情報について、検察官は訴追後もそのような証拠や情報があるかを探求し、あった場合には弁護人に開示すべきを定めている。「証拠開示」の基準でも、被告人に有利な証拠を適時に開示すべきであることが定められている(11-2.1)

現在34の州が、検察官に対し、被告人の刑事責任を否定する方向に働く証拠(exculpatory evidende)の開示を法律により義務付けている。そのうち2州を除いては、証拠開示に関する重要な連邦最高裁判例Brady v. Maryland(注4)がいう、証拠の「重要性」(materiarity)を求めていない(注5)。すなわち、こうした倫理規程や証拠開示のルールは、最高裁判例が示したのよりも、検察官が負う証拠開示の義務の範囲を広げているのである。

証拠開示義務に違反した場合、検察官は懲戒処分の対象になりうる(注6)。しかし、懲戒制度が十分に機能しないことを批判し問題視する声も多い(注7)。ニューヨーク州では、警察官が証人を威迫して偽証させた結果、殺人の罪を着せられた男性が16年間服役したという事件で、警察官が証人を威迫していたことを検察官が知りながら弁護人に対して何も開示しなかったことが明らかになった。それにもかかわらず、検察官が何も処分を受けなかったことが強く批判された。この件を契機に、2019年4月、検察官の不正行為を調査する委員会を設ける法律が可決され、Andrew M. Cuomo知事が署名したという(注8)。

検察官倫理の不存在


翻って日本はどうか。前回書いたように、日本には、検察官に対する行動規範としての倫理規程が存在しない(少なくとも公開されていない)。検察官による証拠改ざんを契機に設けられた「検察の理念」(2011年)でも、証拠開示については何も触れられていない。

えん罪が明るみになり、証拠不開示がえん罪の原因となったことが判明してもなお、検察庁にはそのような動きはない。布川事件で再審無罪が確定した櫻井昌司さんが国と県に対して賠償を求めた訴訟で、2019年5月、東京地裁は、 検察官の手持ち証拠のうち、裁判の結果に影響を及ぼす可能性が明白であるものについては、被告人に有利不利な証拠を問わずに開示する義務を負うと判断し、検察官が証拠開示に応じなかったことの違法を認定した(注9)。しかし、検察庁 がこうした指摘を受けて実務の改善を図ったという動きは耳にしない。

証拠開示に関する規定は、刑事訴訟法に存在する。現在の実務では、公判前・期日間整理手続に付された事件(全体の2.7%(注10))では類型証拠、主張関連証拠に該当する証拠が開示され、そうでない事件では、任意開示される運用がなされている。しかし、それはあくまでも「任意」である。公判前整理手続に付されている事件であっても、弁護人が請求しない限り開示されない。弁護人や被告人がその存在を知らないまま証拠が開示されない危険は十分にある。

最後に


 現代社会では、法律家のみならずどんな専門職にも倫理が求められている。企業においてもコンプライアンスの遵守が要求されている。倫理を守ることによって、専門職に対する信頼が維持されている。強大な権力の下に個人を訴追し、刑事司法を担う検察官であればなおさらであろう。

アメリカの制度が最善であるというつもりはない。しかし、証拠隠し、証拠不開示がえん罪の原因となっていることを受けて、検察官の証拠開示義務を見直し、倫理規程や法律が制定されてきたこと、さらには証拠開示改革に向けて議論が進められていることから学ぶべき点は非常に多いと思う。

証拠の不開示によってえん罪が起きていることを真摯に反省するならば、検察官のための倫理規程を設け、証拠開示に関する行動規範を明記する、少なくとも内部のガイドラインを設け、それを公表して国民の理解を得るように努めるべきではないだろうか。



脚注
(1) 熊本地裁平成28年6月30日決定(判時2368号97頁)
(2) 熊本地裁平成31年3月28日判決(裁判所ウェブサイト)
(3) アメリカにおける検察官の証拠開示義務については、ブルース・グリーン、ピーター・ジョイ「アメリカにおける検察官の証拠開示義務」(一橋法学13巻2号525頁、2014年)に詳しく論じられている。リンクから読むことができる。 
(4) National Registry of Exonerations,  Government Misconduct and Convicting the Innocent-The Role of Prosecutors, Police and Other Law Enforcement (2020), at 75. また、前掲注4・868頁は、ブレイディ判決の証拠開示義務違反が、最も多い誤判原因の2番目に多いという研究を紹介する。
(4)  373 U.S. 83 (1963)
(5) 前掲注4, 78-80頁
(6)   The Center for Public Integrityが発表した、Neil Gordon, Misconduct and Punishment-State Disciplinary authorities investigate prosecutors accused of misconduct (June 2003, 2018年に更新)は、被告人の無罪を示す証拠のの不開示により検察官が懲戒処分を受けた例を紹介する。
(7)  Thomas. P. Sullivan et al., The Chronic Failure to Discipline Prosecutors for Misconduct: Proposal for Reform, 105. J. CRIM. L. &CRIMINOLOGY (2015)  
(8)  New York Times, Prosecutors Sometimes Behave Badly. Now They May Be Held to Account, 5 April 2019
(9)  東京地裁令和元年5月 28日判決(裁判所ウェブサイト) 
(10)   平成30年司法統計刑事編第39表「通常第一審事件の終局総人員−公判前整理手続及び期日間整理手続の実施状況別合議・単独、自白の程度別−全地方・簡易裁判所」より

 

2020年9月11日金曜日

検察官とマスメディアとの関係ー検察官倫理について考える

垂れ流される捜査情報


逮捕され、警察官に取り囲まれてうなだれる被疑者の写真。「現場から被疑者の指紋が発見された」という警察
/検察「関係者」のコメント。「被疑者は事実を認めているという」という記事のまとめ…。新聞やテレビ、インターネットは、日々こうした報道であふれている。報道を目にするうちに、私たちは知らず知らずのうちに「この人が犯人だ」「この事件は〜だ」と思い込まされる。裁判が始まる前に、犯人と決めつけられ、社会的に有罪と判断されてしまうとするならば、裁判とは一体何なのか。

報道の自由や知る権利が重要であることは言うまでもない。一方で、こうした報道のあり方は被疑者/被告人の無罪推定を否定し、将来行われる裁判にも影響しうる。果たして、検察官は捜査情報を何の制限なく報道機関に発表することが許されるのだろうか


検察官の情報発表を規制する規定の不存在

日本には、検察官とマスメディアとの関係、具体的には検察官が捜査や刑事手続に関する情報提供を規制する規定がほとんど存在しない。強いていえば、公務員は職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならないと定める国家公務員法100条があるだけである。倫理規程にもそのような規定はない。そもそも国家公務員倫理法と同倫理規程があるだけで、刑事事件の捜査や訴追を担う検察官を対象にした倫理規程は存在しない。

検察官による不祥事を受けて設けられた検察の在り方検討会(法務大臣の諮問機関)では、検察官が職務遂行において従うべき倫理規程を明文化すべきであることが提言された。これを受けて、2011年9月「検察の理念」が設けられた。しかし、その内容は抽象的なものにとどまり、報道機関との関係については何も言及されていない。


諸外国の例-アメリカ(連邦)の例

諸外国ではどうか。アメリカには、検察官とマスメディアとの関係に対する法律上及び倫理上の規制が存在する。


1.  ABAの法曹模範規則

まず、アメリカ法曹協会(American Bar Association, ABA)の法律家職務模範規則(Model Rules of Professional Conduct)がある。この規則は1983年に採択され、改訂が重ねられてきた。現在までに49州とワシントン特別区などで採択され、裁判所規則等として機能する。検察官にも適用される。模範規則は、「事件の公表」という項目を設け、事件や訴訟を担当する法律家が、司法判断に重大な予断を与える実質的可能性があることを知り、あるいは合理的にしりうる事項について、訴訟手続外で陳述することを禁じる(3.6)。また、検察官の特別な職責」を定め(3.8)、その一つとして、社会人に対する社会的非難を強める可能性のある訴訟手続外の論評を避けなければならないとする(3.8(f))。

ABAは、1968年に「刑事司法の基準」(Standards of Criminal Justice)を採択し、「検察の機能」という基準を設けた。これはあくまでも「ベストプラクティス」を示したものであり、その違反が懲戒原因や、刑事訴訟における実体法・手続法上の主張を直接構成するものではない(3.1-1(b))。基準では、秘密裏または匿名で、公にされていない情報を提供してはならないことなどが定められている。

 

2 司法省ガイドライン

連邦司法省ガイドラインは、検察官とマスメディアとの関係について、ABAの模範規則をさらに具体化して規制する。


連邦政府規則(Code of Federal Regulations, “CFR”)のうち、司法省に関する規則は、司法省職員(連邦検察官を含む)による、刑事事件に関する情報の公表について具体的なガイドラインを設けている(CFR. §50.2


刑事事件に関する事実の公表に関して、裁判の結果に影響を与える目的で陳述し、あるいは事実を公表してはならないことを確認した上で(同⑵)、公表する事実は疑う余地のない事実に限られるべきであり、主観的な観察内容を含むべきではないこと、具体的には、被告人の名前や年齢、住居、起訴事実の内容、逮捕の時間や場所などに限られることが示されている(同⑶)。他方で、被告人の供述(自白や否認、供述しない態度を含む)、指紋やポリグラフ検査などの検査に関する手続に関する内容、証人候補者の将来の証言内容や信用性に関する意見、事件の証拠に関する意見、また有罪答弁の可能性に関する意見などを公表してはならないことを定める(同⑹)。また、被告人が報道機関によってテレビ・写真撮影されるのを促すことなども禁じる(⑺)。

司法省のマニュアルJustice Manualも、情報の秘匿と報道機関との関係について定める1-7.400「進行中の刑事/民事/行政事件の捜査に関する情報の開示」、1-7.500「刑事/民事/行政事件の捜査に関する開示可能な情報の発表」)。


これらのガイドラインは内部的な効力しか有しないとされているが、新人の教育指導や組織内部の一貫性、さらに組織としての判断構造を示すという点で重要性がその指摘されている(Ellen S. Podgor, Department of Justice Guidelines: Balancing “Discretionary Justice”Cornell Jounal of Law and Public Policy Vol. 13 (2004), 167 at 194. )。


なお、司法省は、検察官の倫理違反とされる行為について調査する部署(Office of Professional Responsibility, "OPR")を独自に設け、判断内容等について公表している。

 

3 その他の国の制度

検察官とマスメディアとの関係に関する倫理規程を設けているのは、アメリカだけではない。

イギリスは、Crown Prosecution Serviceが内部ガイドラインにおいて、過剰なマスメディア報道が、公正な裁判を受ける権利を侵害する可能性があることを指摘して、関連する裁判例を紹介している

カナダも、検察官の倫理規程Public Prosecution Service of Canada Deskbook)を設けている2.9章はマスメディアとの関係について詳細に定め、社会に対する説明責任を重視して適時に正確に情報を提供することを求める一方、被告人の有罪無罪や、事件の弱点などに関する個人的な意見など、述べるべきではないことについても規定を設けている(7.2)。ニュージーランド香港も、検察官に対する倫理規程の中で、検察官とマスメディアとの関係について具体的な規定を設けている。


今後あるべき議論

東京高検検事長の定年延長をめぐり、元検事長が新聞記者とかけ麻雀を繰り返していたことが発覚したのを契機として、検察官倫理に大きな注目が集まった。その後設けられた検察行政刷新会議では、検察官の倫理がテーマの一つとして挙げられている。問題の本質は、一検察官の賭け麻雀ではない。検察官とマスメディアの関係に対する不信こそが問題にされるべきであろう。

これを機に、検察官による情報発表に関するガイドラインの導入に向けた議論・検討がなされるべきだと思う。その際、先に紹介したアメリカ連邦司法省のガイドラインは参考になると思う。被疑者・被告人は裁判の前に「有罪」と決められてしまうような社会でよいのか。検察官倫理は、公正な裁判の実現に直結する問題として考えられるべきだろう。


刑事裁判の公開と、判決宣告のオンライン配信ー刑事手続のIT化について考える③

1 判決宣告のテレビ撮影と配信 先日、刑事裁判の審理のインターネット配信をテーマに ブログ記事 を書いた。 これとは異なり、判決宣告の場面に限ってテレビ撮影し、オンライン配信やテレビ放映する制度を設けて運用する法域が存在する 。その背景には、オンラインによる審理の公開による問題(...